地域の昔話(3)曽根の切れ所
このページでは華渓寺のある曽根町の昔話のページです。
※小中学生向けに作られた本を参考にしていますので、わかりやすい内容になっています。
曽根の切れ所
明治21年(1888年)7月29日のこと、昼を過ぎたころから、急に空が暗くなり、夕方になると風が出て、雨も降りだしました。
けれども、村人たちはいつもの雨降りと変わらないと思って、特別な用心もしませんでした。
ところが、みるみるうちにひどい風に変わり、川の水も増えてくるので、人々はどうなるのだろうと心配になってきました。
ちょうど、夜の9時40分ごろ
「寺の鐘をついてみんなに知らせろ。」
「お前たちは早く逃げるのだ。」
こんな叫び声が村中に響き渡りました。
昼からの大嵐で、揖斐川の水が激しい流れになって、曽根・瀬古の堤防にぶつかってきたのです。
その勢いで長さ170メートルにも及ぶ堤防が崩れ、そのあたりの家々120戸が暗闇の中へ押し流されてしまいました。
みんなは予想もしないことだけにただただ慌てふためくばかりで、近くの円徳寺まで逃げるのが精いっぱいでした。
やっとの思いで円徳寺の本堂まで逃げてきた人たちが家族の無事を確かめあっています。
その一歩外では、悪魔のように口を開けた川の水がゴーゴーとうなり声をあげながら押し寄せているのです。
「助けて〜〜〜〜こわいよう〜〜〜」
と、耳をつんざくような子供の声が聞こえてきます。
目の前を流れていく人を自分の目で見ながらも、どうにも助けようのないほど誰もが命がけで逃げていたのです。
恐ろしさに震えながら一夜を明かした人々は、翌日の30日には助け船によって救出されました。
飲み水や握り飯が配られたとき、今まで腹をすかしていた人たちは涙を流しながら飛びつくように食べたということです。
また、大阪のような遠いところからもとろろこんぶが送られてきたりもしました。
こうした人々の温かい思いやりは、家族を亡くしたり、家を奪われて悲しみのどん底にある人たちにとって、どんなにうれしかったことでしょう。
この大洪水の様子を近くの堤防の上から眺めると、見渡す限り泥沼となり、曽根の切れ所から流れ込んでいる川の水が、一筋の帯のように見えました。
そして、水の勢いで押し流されてきた家が中山道の松並木にあちらこちらにぽつんぽつんと引っかかっているのでした。
ふと耳を澄ますと
「助けてくれー、放っておかないでくれー」と助けを求める声が聞こえてきます。
遠くて影形こそはっきりしないが、確かに人の声に違いない。
そう思いながら小舟に乗り込んで漕ぎつけてみると、やはり曽根から流れ着いてきた人が水の上に頭を出している屋根にまたがって、手を振りながら助けを求めているのでした。
こうした様子からも、この洪水がどれほど恐ろしいものだったかがわかると思います。
周囲の人たちが、必死の思いで助け合ったにもかかわらず、たくさんの命が奪われてしまいました。
特に、堤防の切れた場所が曽根だっただけに、この地に残った爪痕は大きく、曽根だけでも40余名もの死者を出してしまったのです。
今では円徳寺の墓地に亡くなった人たちの石碑が残されていますが、それはまるで道行く人たちに昔の悲しい思い出を静かに語りかけているようにも思えるのです。
(参考図書:中川のむかし話 大垣市立中川小学校編)