稲葉一鉄公創建・梁川星巌・紅蘭ゆかりの寺

華渓寺公式サイト

南化玄興和尚(定慧円明国師)(華渓寺創建開山)

南化玄興和尚坐像

華渓寺の開山である南化玄興和尚は、美濃の土岐氏出身とも、一柳氏の一族ともいわれています。
1538年に生まれ、幼くして出家し、美濃の崇福寺や甲斐の恵林寺で快川紹喜和尚に参じて印可を得ました。 1576年頃、快川和尚の推挙により、稲葉一鉄の母親の十七回忌の折、菩提寺である華渓寺の創建開山となりました。

その後、妙心寺への住山は4度にわたり、1586年には土佐藩主山内忠義の招請により、大通院(妙心寺塔頭)の創建開山に、1591年には豊臣秀吉に招請により祥雲寺(京都)の創建開山となりました。
時の後陽成天皇からも帰依を受け、度々宮中にも参内し、国師号「定慧円明国師」を賜りました。

また、1579年には織田信長の依頼により安土城の雄姿を褒め称えた『安土山記』を著し、その労に報いて黄金百両等の贈り物を頂いています。
1604年、妙心寺の塔頭である隣華院にて67年の人生を終えました。

(画像:華渓寺蔵 南化玄興和尚坐像)

稲葉一鉄(戦国武将・曽根城主)

稲葉一鉄公肖像

稲葉一鉄は戦国時代の名将で曽根城の城主として活躍した人です。
安藤守就(本巣・北方城主)・氏家卜全(大垣城主)とともに、西美濃三人衆と称されました。

先祖は四国の伊予(愛媛県)の豪族である河野(こうの)氏です。
一鉄の祖父である通貞が美濃国へ出て美濃国主土岐成頼に剣術師として取り立てられたのが始まりです。
父の通則は池田郡(現・揖斐郡池田町)の本郷城主國枝正助の女を嫁とし、一鉄はその六男(末っ子)として1515年に生まれました。

1525年、一鉄10歳の時、牧田合戦で父と5人の兄を亡くし、幼くして曽根城主となり、土岐氏・斎藤氏・織田信長・豊臣秀吉に仕えることとなったのです
一鉄は生涯80回余りの戦に出陣し、一度も負けたことがないと言われています。
また、芸能にも秀で、信長が曽根城に立ち寄った際には、翁の面をつけ、猿楽を舞って見せたといわれています。
信長からは文武に優れた武将として一目置かれていたほどでした。

1579年、曽根城を息子の貞通に譲り、自身は清水城(揖斐川町)に隠居し、1588年、73歳で静かに一生を終えました。

※今年(2015年)は稲葉一鉄生誕500年に当たります。

(画像:臼杵月桂寺蔵 稲葉一鉄像)

梁川星巌(漢詩人・勤王の志士)

梁川星巌像

日本の李白と言われた江戸末期の漢詩人。
そして、明治維新の多大な影響を与えた勤王の四天王の一人。
星巌は、1789年に華渓寺のある安八郡曽根村(現・大垣市曽根町)の郷士、稲津長高の長男として生まれました。
幼い頃から華溪寺の太隨和尚(星巌の祖父の弟)に、四書五経や習字などを学びました。

11歳の時に両親を亡くし、13歳で稲津家の当主となりました。
しかし、星巌の向学心は尽きず、18歳で弟に家督を譲り、江戸へ遊学します。
星巌は山本北山の奚疑塾に入り、瞬く間にその才能を伸ばしました。

しかし、20歳の時、悪友と共に遊びに夢中になり、25両という多額の借金を作ってしまいました。
そこで地元の華渓寺の太隨和尚に詫び状と起請文(華渓寺内梁川星巌記念館所蔵)を差し出し、返済してもらいました。
改心した星巌は再び熱心に奚疑塾で学び、北山門下十哲に数えられるほどでした。

1817年、星巌が28歳の時、故郷である曽根に戻り、「梨花村草舎」という塾を開きました。
そこには、のちに妻となる、またいとこの紅蘭がいました。
1820年、星巌31歳、紅蘭16歳の時に2人は結婚し、1822年からは夫婦共立って、中国・四国・九州へ旅に出かけました。
5年にわたる長旅の中で、頼山陽や広瀬淡窓ら、多くの学者や文人と交遊し大きく成長しました。

1834年に夫妻は江戸お玉ヶ池の畔に詩塾「玉池吟社」を開きました。
塾生は1000人にも上り、江戸における詩壇の中心的な人物になっていきました。
その隣には佐久間象山の屋敷があり、ここで深い親交がありました。

その頃の日本は飢饉や一揆、打ちこわしが各地で起こり、外国からの船も押し寄せてくるようになり世情は不安定になっていく中で徐々に勤王の志を強めていきました。

1845年になると星巌は突如塾を閉鎖し京都へと転居します。
公家ともつながりのあった星巌の下には同じく勤王の志を持った頼三樹三郎、吉田松陰、西郷隆盛ら多くの志士が訪れ、国事を談じました。
時の幕府は星巌のことを「梁川星巌事、悪事の問屋」「今度の張本第一なる者」とし、星巌こそが勤王の志士のリーダーであると考えていました。
幕府が安政の大獄へ向け星巌や他の志士を捕えようとしていた1858年、星巌はその当時京都で流行していたコレラにかかり、仲間の志士に支えられつつ、坐したまま70年の生涯を閉じました。
それは安政の大獄の始まるわずか3日前の事でした。
人々はこの事を称して、また漢詩の大家であったことから「星巌は死に上手(詩に上手)なり」と言いました。
その後、明治24年に星巌の明治維新への功績を称え、正四位が追贈されました。

(画像:華渓寺蔵 梁川星巌像)

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