稲葉一鉄公創建・梁川星巌・紅蘭ゆかりの寺

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地域の昔話(1)稲葉一鉄

このページでは華渓寺のある曽根町の昔話のページです。
※小中学生向けに作られた本を参考にしていますので、わかりやすい内容になっています。
稲葉一鉄の幼少期
稲葉一鉄は、幼名を「六郎・通以」といい、少し大きくなると「彦六・通朝・良通」と変わり、その後「右京亮・伊予守」となり、年を取ってからは一鉄と名乗りました。
先祖は、四国の伊予に住んでいて河野(こうの)という姓を名乗っていましたが、祖父の通貞が美濃国へ来て、稲葉姓に改め、土岐氏に仕えていましたが、応仁の乱(1467〜77年)の後には曽根城を作って、初代城主とになりました。
父は二代目の曽根城主で、稲葉備中守通則といい、母は本郷城主、國枝大和守正助の娘でした。
一鉄はその六男で、永正12年(1515年)に本郷城で誕生しました。
5人の兄たちはみな武士になりましたが、一鉄は7歳のころから崇福寺(岐阜市長良)に預けられ、拍堂和尚の弟子になりました。
しかし、大永5年(1525年)8月2日の牧田合戦で父をはじめ、5人の兄も戦死してしまいました。
やむを得ず祖父と叔父が相談して、急いで一鉄を呼び戻しました。
その時一鉄は10歳でしたが、父の通則に代わって皆の先頭に立って戦いました。
これが一鉄の戦いに参加した、一番の始まりでした。
間もなく戦いは終わり、一鉄は曽根に帰って三代目城主になり、父と同じく土岐氏に仕えました。
すばらしい一鉄
一鉄は生まれた時から体が大きくて気が強く、戦術にも優れていました。
名前の通り「一徹」であり、この「一徹」という語源は稲葉一鉄から来ているのです。
その頃の大垣城主の氏家直元(卜全)、北方城主の安藤守就と共に稲葉一鉄は西美濃三人衆と言われ、優れた侍大将でした。
戦国時代と言われるその頃は、あちらこちらで戦いがあり、弱いものは次々と滅ぼされていきました。
長い間、美濃国主であった土岐氏は斎藤氏に滅ぼされ、斎藤氏もまた織田氏に滅ぼされたので、一鉄は織田信長に仕えることになりました。
一鉄は、信長に仕えてからも、たびたび戦いで大きな手柄を立て、信長からたくさんの褒美をもらい、ますます立派な武士として有名になりました。
そのため信長はかえって一鉄を恐れるようになり、殺してしまおうと計画しました。
それは天正2年(1574年)一鉄が60歳のころのことでした。
ある日、信長は茶会を開いて一鉄を岐阜城に招きました。
お茶席には力の強そうな信長の家来が3人出てきて一鉄を接待しましたが、すきがあれば一鉄をさし殺させようとした信長の計画でした。
その時、一鉄は床の間にかけてあった掛軸を見て大きな声で読み上げました。
「雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前」(雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬すすまず。)
家来たちがそのわけを聞いたので、これは唐の韓退之の詩の一部であること、その頃の唐の様子まで詳しく説明しました。
この話を隣の部屋でじっと聞いていた信長は、一鉄の学問の深いことにすっかり感心しました。
今までは一鉄をただ戦いが強い野武士のような男とばかり思っていましたが、今誰にもできないような素晴らしい一鉄の説明を聞いて、びっくりした信長は、突然隠れていた部屋から一鉄のいる部屋へ出てきてしまいました。
「今日あなたをお招きしたのは、本当はお茶会ということにして、あなたを殺すつもりでしたが、今の素晴らしい説明を聞いてあなたの学問の深いことに感心してしまいました。これからはあなたを疑うようなことは絶対しませんので、あなたも私のために働いてもらえないでしょうか」と言いました。
それを聞いた一鉄は座りなおして、「私も今日のお招きはただごとではないと考えましたが、出席しないのは武士の恥と思い、せめて相手と刺し違えて死ぬ覚悟で来ました。」と言って懐から一本の短刀を取り出して信長の前へ置きました。
信長はますます一鉄の心がけに感心したということです。
それから2人の仲は大変良くなったということです。
天正3年(1575年)には、信長は一鉄のいる曽根城へ遊びにやってきました。
一鉄は大変喜んで猿楽を踊って見せました。
この時使われた翁の面は今も曽根の華渓寺の宝物として大切に保存されています。
老年のころの一鉄
天正7年(1579年)冬、一鉄は子供の貞通に跡を継がせ、曽根城主とし、自分で築いた清水城(今の揖斐川町)に隠居しました。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死んだ後は豊臣秀吉に仕えました。
天正11年(1583年)正月には、揖斐の堀池半之丞を攻め滅ぼしてしまいました。
この戦いは、正月1日でもあり、半之丞は娘婿でもあったので、一鉄にとっては気の進まない戦いであったことでしょう。
その後、曽根では正月三日間は静かにする風習が生まれました。
今でも、除夜の鐘をついたり、鈴を鳴らしたりするとその年に火事が出るといわれているのはなぜか不思議な話です。
また、一鉄は神仏を敬い、神社やお寺を大切にしました。
弘治元年(1555年)10月7日、一鉄の母が病死したので、曽根の東に葬り、その墓地の近くに華渓寺を建て、母の冥福を祈りました。
その他、多くの寺や神社をきれいにして人々の心を安らかにしようとしました。
天正13年(1585年)7月3日に、日吉神社(安八郡神戸町)の三重塔を修理したり、揖斐の山奥の横蔵寺を修理したのもその一例です。
このように戦国時代といわれる乱世を生き抜いた一鉄は、曽根城主として戦うこと約80回、文武両道に優れた武士でしたが、天正16年(1588年)11月19日、74歳の生涯を終え、清水城で静かに死んでいったということです。
墓は華渓寺、月桂院(揖斐川町)の両方のお寺にあります。
最後に一鉄の俳句をいくつか。
・かさねつむ年をかたみの若葉かな
・天清くならの広葉の下すずみ
・峰におう山路の月や菊の秋
(参考図書:中川のむかし話 大垣市立中川小学校編)

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