華渓寺の沿革・由緒
曹源山華渓寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。
天正4年(1576年)6月、曽根城主稲葉一鉄の母の菩提寺として、その十七回忌の折、現在の場所から東へ200メートル(堤防の東側)の位置に創建されました。
華渓寺という寺号は、母親の戒名「華渓寺殿涼臺宗薫大禅定尼」に拠っています。
創建開山は、後陽成天皇より、国師号「定慧円明国師」を賜った南化玄興和尚(甲斐・恵林寺の快川紹喜和尚の法嗣)です。
その後、南化和尚がこの地を去ると、一時華渓寺は衰退し、無住寺院となりました。
寛文7年(1667年)7月、曽根村の稲津家、長谷川家、および村民により草庵が建てられ、勢州古川村(現在の三重県津市古河町)の龍津寺より合湛首座を住持として迎え、同8年(1668年)9月、本山である妙心寺の末寺となりました。
さらに、17世紀後半には稲葉一鉄の家臣であった稲津家3代目当主・種正により、改めて佛鑑和尚を中興開山として招き、華渓寺は再興されることとなりました。
この稲津家は幕末の勤王の志士で、日本の李白とまでいわれた漢詩人、梁川星巌(やながわせいがん)の生家でもあります。
享保19年(1734年)10月、当寺5世逸仙和尚の時代には揖斐川や支流の平野井川の氾濫の被害を避けるため、江戸時代初期に廃城となっていた曽根城の本丸跡(堤防の西側)へ移築しました。(この地は周辺と比べ少し小高くなっています。)
当寺7世の太隨和尚は歴代和尚の中で唯一、稲津家の出身であり、梁川星巌の大叔父にあたります。
太隨和尚は星巌が幼少の頃より学問を教え、後見人ともなって支えた人で、その後の星巌の活躍の基礎を築いた人物でもあります。
華渓寺のご本尊は「聖観世音菩薩」です。現在の坐像は元々は稲津本家に祀られていたものであったと伝えられています。
また鎮守社として、創建当初は華渓寺すぐ横(堤防東側)に辨才天が祀られていました。
江戸時代には大垣藩主の戸田公がこの辨才天社に対して度々、2石7合の禄を寄附されています。
さらに、当時この社には稲葉一鉄愛用の「翁の能面」が奉納されており、多くの人々が参拝しました。
明治天皇や大正天皇もこの翁の面をご覧になられたとのことです。
実は、この翁の面は江戸時代に幾度も盗難に遭っていますが、不思議なことに、その度に必ずこの地へ戻ってきたとのことです。
そのうち一度は九州の大分まで行っていたという記録も残されています。
その後、鎮守社は明治21年(1888年)7月の大洪水により崩壊してしまいました。
そして、明治32年(1899年)5月に洪水被害を受けにくい堤防の西側に新たな社が造られました。
今現在、その翁の面は大垣市の文化財となり、当寺にて大切に保管されています。
また、社は曽根大神社として町民によって大切に守られています。
(画像 左:曽根城跡標柱 右:華渓寺本堂)